少女が手に持ったそれは、口の大きな、少し変わった形の瓶だった。
「…そうだ」
少女が何かを思いついたように、頷く。
「祐一君、タイムカプセルって知ってる?」
「…瓶はいいとして、何を入れるんだ?」
「これだよ」
それは、天使の人形だった。
「でも、まだ願いがひとつ残ってるだろ?」
「ボクは、ふたつ叶えてもらったから、十分だよ。残りのひとつは、未来の自分…、
もしかしたら他の誰かのために…送ってあげたいんだよ」
大丈夫。きっと、見つかるよ。
この人形を必要とするひとがいれば、かならず…。
……目が、覚めた。
そこは、来栖川先輩が用意してくれたホテルのベッドの上。
時間は、午前12時を指していた。
夢。
夢を見ていた。
昨日までは他人だった、ある男の子の夢。
埋められた天使の人形。
それは彼女が残した、忘れ物。見つからなかった、探し物だった。
オレは着替えてコートを引っつかみ、部屋をあとにした。
帰る前に、オレはもうひとつだけ、やらなきゃいけないことがあった。
唇が、寒さでぱつんと切れた。じきに肌もどっか切れるだろう。
夢の軌跡を辿り、あの遊歩道へと向かう。
街灯も暗い遊歩道は、わずかな雪明りさえ木陰で隠し、闇を作り出していた。
夢の位置に立ち、必死で掘り返す。
ざっざっ…。
「お前ら……大切なものなんだろ」
埋めた場所くらいおぼえておけよ、な。
凍土を書き分け、瞬時に感覚がなくなった手を赤く染めながら…
ほどなくして、砕けた瓶が姿を現した。
7年前の空気を吐き出した人形は、羽が片方もげていて、頭に乗っていたわっかもなくなっていた。
時の重さを、改めて感じる。
それを抱え込むようにして、オレは駆け出した。
――ヒロ。例の子の名前…聞く、でしょ?
――……聞く前に一つ約束して。何があっても、絶対に明日、戻ってくるって
――行く前にも言ったでしょ、なんかヤバそうなヤマだって。これ話したら何か起きそうな、やな予感がするのよ…
――だから約束して、ヒロ……
真夜中の森は、遊歩道に輪を掛けて漆黒の中だった。
自らの眠りを覚ます小さき者を、追い払うかのように。
オレはめちゃくちゃに掻き分けて進んだ。
確かなものは、2日前の記憶と、7年前の夢だけ。
時間の感覚も曖昧なまま、藪と根の垣が終わり、オレの目の前に、あの場所が広がった。
そこは、二日前とは全く装いを異ならせていた。
雪明りに浮かぶ、一本の大木。
大人が数人かかっても、抱えきれない太い幹。
森の統率を取るかのように天を覆い隠して、聖樹が立っていた。
そして、
「ヒロくん?」
頭上から声がした。
首を垂直にしなければ見えないほど高い枝の上に、一人の女の子が腰掛けていた。
応えずに、オレは雪を踏みしめた。
「待ってて、あっ!」
視線を向けたその刹那、女の子が短い叫びを上げた。
まるで木の葉が落ちるよう。
ストップモーションで時が動く。
オレは何かをわめきつつ、疾走していた。
跳びこむ。
アイスバーンになった雪で手がこすれ、コートが氷を吸い付ける。
その身が氷雪に叩きつけられる瞬間、オレの腕は少女の重さを受けとめていた。
「へへ、ナイスキャッチだね」
落ちた少女は何事もなかったように微笑む。
…ばかやろ。
口からは何も出てこなかった。たちまち視界がぼやけ、熱い液体が頬を伝う。
「どうしたの? ボク、何もしてないよ」
「ごめんな、だけど、だけどオレにはどうしようもないんだよ」
「ヒロ、くん?」
「オレは7年前に戻って、お前の身体を受けとめてやることは出来ないんだ…」
隠していた。ずっと隠していた。
おとといから気づいていた。いや、もっと前から、感づいてはいたんだ。
オレに高校を教えなかった理由(わけ)。
家まで、決して送らせなかった理由。
この森の守り主が、切られた理由。
花を捧げていた人の話、志保の情報。
そして、今目の前に、切られたはずの大樹が、復活している理由。
それらが導き出す答えは、
――じゃ言うわ、その子の名前は
「知ってるんだよ、あゆ。お前は、本当はもうこの世にはいないんだって…」
「……」
そう。
オレの見続けた夢のヒロイン。
オレの記憶と交換された、相沢祐一の記憶の中の少女。
オレの隣を歩き続けてくれた女の子――。
――月宮あゆは、もうこの世には存在しない。
誰の目にもそうは見えないけど、目の前にいるあゆは、幻なのだ。
木々を渡る風が、泣く。
「忘れないうちに渡しておくぜ、探してたのはこれだろ?」
「っ! それ…」
「あの並木道にあったんだ。これ、だろ」
「うん……」
オレは泥と赤いものがこびりついてしまった人形を、あゆの手に乗せた。
複雑そうな顔色になった。
まぁ、この人形にまつわるいきさつを考えれば、無理もないけどな。
「確か、もういっこ願い事が叶えられるんだったよな」
「え…?」
何故知ってるんだという顔で、あゆが固まる。
「わはは、オレは何だって知ってるんだ。さあ言えはよ言え」
「……」
あゆは受け取った姿勢で、固まったままだ。
「早く言わねーと、スリーサイズを世間に大々的に公表するぜ」
「うぐぅ、いじわる…」
「3、2、1、ほら言え」
「そんなに早く言えないよっ、待ってよっ」
「わかった」
二人とも、黙り込む。
しばらく目をつぶって考えたあと、あゆはぴょんと一度飛びのいた。
「お待たせしましたっ。それでは、ボクの最後のお願いです!」
オレはただ、続く言葉を待った。
「ボクのこと、忘れてください」
風も、星の瞬きも、鼓動も、全てがいちどきに止まった。
「ボクと会ったことのある人みんな、ボクのこと忘れてくれますように」
あゆは願いを、もう一度繰り返した。
無理矢理作った笑顔に、月光の木洩れ日がかかる。
「……本当に、そんな願い事でいいのか?」
「ボクの今一番の願い事だよ」
「でも叶えるのは祐一だぞ」
「あはは、そうだったね」
屈託なく、あゆが笑った。
オレはあゆを引き寄せた。
それこそ、人さらいのような乱暴さだった。
「このバカ、そんなの誰が許すってんだよ、他の誰が許してもこのオレが許さねぇ」
「痛いよ、ヒロくん」
「七年間だぞ、七年間も待ったんだぞ。せっかく待っていた相手が来たのに、お前はそれでいいのかよ?」
「……」
「こんなオレと遊んでる場合じゃなかっただろうが」
「……っ」
「ぜんぜん思い出してもらえないままで、お前はいいのかよ?」
「……っ…」
「どうなんだよ、月宮あゆっ!」
耳元で怒鳴りつけた声が森に木霊する。
オレの言葉は、この少女の心にどんな風に跳ね返っているんだろう。
そして、あゆの答えが返る。
「いいんだよ」
「……」
「ボクのこと思い出したら、祐一君はきっと苦しむから…」
「……」
「栞ちゃんが、かわいそうだから…」
「……」
「ボク、みんなの苦しむ顔なんか、見たくないよ…」
「ばかやろう…」
「それにね、もう十分楽しんだよ…本当は、もう二度と食べられないはずのたい焼き、いっぱい食べれたもん」
「……」
「祐一君に会って、いっぱいお話できたもん」
「………」
「それにヒロくんに会えて、たい焼きもおごってもらって、祐一君以外の男の子と友達になれたもん」
「……っ」
「まんぞくだよ」
「嘘つきはうぐぅの始まりだぞ」
「そんな言葉ないよっ」
「この大嘘つきが…っ」
オレはさらに腕に力をこめた。
分厚いダッフルコートで体温が伝わってこないことが、なおさらオレを焦らせた。
「苦しいよ…」
「じゃあなんで待ってたんだよ。なんでオレに跳びついてきたんだよ、祐一くんって呼んで」
思い出は、誰にとっても安心できる場所だと誰かが言った。
楽しい思い出ならそこに逃げ込み、悲しい思い出なら封じてしまえばいい。
どんなことでも、そして、いつしか心は痛まなくなるから。そうしてしまえばいつだって楽しい。だから。
だけれど。
思い出は、消せない。
忘れててもいつか必ず、思い出す。
その時に、
「過去形で語られて、お前は嬉しいのかよ?」
「でもっ、でもっ、このままじゃ栞ちゃんが…」
「栞ちゃんて誰だよ…」
「ヒロくんがボクにたい焼きをおごってくれた時、手を振った女の子だよ」
――藤田さん。わたし、3日だけですけど絵の先生になったんですよ。美坂栞っていう同い年の人と。
――あまりうまくはなりませんでしたけど、頼られるって嬉しいことなんだって、知りました。
――あゆのお守、ありがとな。
――それと琴音が、栞の相手してくれたらしくて。
――栞?……オレの、彼女だ。
「…栞ちゃんは、病気なんだよ…」
「……」
「…すっごく重い、病気なんだよ……」
「……」
「ボクが代わってあげなきゃ……神さまにお願いしなくちゃ、助からないんだよ。…知ってるんだよ。だから」
「だからどうしたんだよっ、大事なのはお前だろっ!!」
あまりにも苦しい選択を薦める台詞に、自分の体までが引き裂かれるように痛んだ。
「うぐぅ……ヒロくん、ボクのこと忘れて。姫川琴音ちゃんを探しに来た街に、こんな女の子はいなかったんだって」
「んなこと、んなこと出来るもんかよっ!」
積もった雪で声はかき消されるはずなのに、オレの叫びは森にわんわんと響いた。
「7年前ここであったことを、オレはみんな知っちまってんだっ。あんな夢見せられて、はい忘れますなんて言えるかよっ!」
「……そう、だから祐一君のためにも、ボクは忘れられた方がいいんだよ…」
呟く様に、あゆが返す。
「本当にか? 誰にも知られず、ただ黙って一人淋しく消えていくのかよ!?」
「……」
「あんまりじゃねぇか、部外者のオレだって納得できねえよ、あんまり過ぎるじゃねぇか」
「……うぐ…」
「本当はずっと相沢といたいんだろ? そうなんだろ。だったら、なんでそう願わねえんだよっ!!」
答えの代わりに、
「…うぐっ……ひっく」
大粒の涙がオレのコートに落ちる。
「……………ごめん、オレのせいなんだよ、オレの…」
悲しい運命を背負って…
自分の運命を真正面から見据えて、待ちつづけたあゆ。
その時間を壊したのは、オレだ。
そう、藤田浩之という男が姫川琴音という少女を、捕まえておけなかったせいで。
彼女が、相沢祐一と会ってしまったせいで。
そして慌てて追っかけてきたオレが目の前の、月宮あゆと会ったせいで。
二人の接する機会は薄れ、限りなく遠のいてしまったのだ。
そして何一つ満たされないまま、あゆは世界から姿を消そうとしている。
「嘘でもいい、オレを、安心させる願いを言ってくれよ…」
あゆが顔を上げた。
頬に、幾筋もの輝きを乗せている。泣いているのに、にこにこ笑っている。
唇が、開く。
「ボクの…」
抱いたからだから、白光が広がっていく。
ふっと、感触が消えた。
光が止んだとき、そこには何もなかった。
あゆの姿も。
コートも、リュックも、天使の人形も。
そびえていた森の王も消えて、ぽっかりと空いた空間から月光が差し込んでいた。
時間切れ。
それは、あまりにも凄鎗な現実。
奇跡に起こった、時間切れ。
夢は、終わりだった。
最後の願いだけが、滑り込むように、オレの耳に残る。
そんな、最後の願いだった。
空には夜半の月が青い光を放っている。
オレは、今日ほど『運命』という言葉を呪ったことはなかった。
「……こんな、こんな結末ありかよ」
悲しかった。
本当に悲しかった。
どうしようもなくやるせなかった。
「おい神っ、聞こえてるか! お前は琴音ちゃんといいあゆといい、どうしてここまでひどいマネをするんだっ!!!」
ずっと信じ待ってゆく少女に奇跡が与えた物語は、偶然が幾つも重なり合って、メチャクチャになって幕を閉じてしまった。
耳の奥でかすかな子供の泣き声が聞こえる。
そうだ。
オレにも、こんなことがあった。
オレは、犬を買っていたことがあった。
ボス。
オレよりでっかくて強い奴だった。
お手をさせると、こっちが潰されそうになった。いつまでも絶対敵わないと思っていた、のに。
ある日、ボスは病気であっけなく死んでしまった。
それからしばらくのあいだ、オレはあかりにも雅史にも会わず、泣き暮らした。
この世がなくなってしまえとさえ思った…。
大好きな者との、別れ。
小さい頃、オレは迷子になった。
全く知らないところに出てうろたえていたオレを、ある人が助けてくれた。
オレはそこのうちの女の子と仲良くなって、毎日のようにその子の家まで遊びに出かけた。
いつでも一緒にいたくて、ふたりでお願いもしたのに…
ある日、その子は忽然と姿を消してしまった…。
理不尽で、唐突な、別れ。
「……くそ…」
その二つの別れが、同時に、目の前で起こった祐一と、あゆの気持ち。
部外者のオレが、抱えられるものじゃなかったんだ。
オレは切り株に座った。
後から後から、涙が溢れてきた。
知らなかったとはいえ、運命に介入して、壊してしまったのはオレだ。
半端な覚悟で、取り返しのつかない事にうかうかと手を貸してしまったことにようやっと気付く。
オレが、あゆをもう一度、死なせた…。
「畜生ォッ!!」
『運命』という言葉と同じくらい、自分が嫌になった。
動く気力は既に無かった。きっとこのままここにいて、凍え切り、ジ・エンドだろう。
…志保。
…先輩。
言ってたのは、このことだったんだな。
みんな。
悪ぃな、オレは帰れない。あかりたちと一緒に、後で石でも投げてくれ…
浅い眠りが覚めました。
藤田さんの声が、頭に響いた気がしました。
胸を諦めつける不安。
後悔への恐怖。
わたしは、ベッドを出ました。