「ことねちゃ…」
「わたし、帰ります。今日までどうもお世話になりました」
そして水瀬家の3人へ、ぺこりと一礼する。
「藤田さんが追って来てくださったのに、これ以上迷惑はかけれませんから…」
くるりとターンし、オレに近づく。
「戻りましょう。1週間ご迷惑をかけて、申し訳ありませんでしたっ」
……。
悲しくなった。
琴音ちゃんの目の色は、自分を殺している色だ。
運命を半分信じつつも、オレを悲しませまいと犠牲になろうとしている目。
きっと自分は今まで通りみんなに気にかけられない日々になるだろうけど、水瀬家の人達を困らせまいと無理している眼。
たった数日間の夢の日々を胸にしまって、辛い現実へ帰ろうとしている。
分かってはいた。
このままただ連れ戻すだけじゃ、原因を解消しなければ、琴音ちゃんに苦痛を味わわせるだけだと。
オレ一人が気にして追っかけてきても、心からは信じてくれないだろうことを。
でも、それでもよ、オレは琴音ちゃんを帰したいんだ……。
苦しい。
琴音ちゃんを、怒ることも、喜ぶ事も出来なくて、苦しい。
「琴音!」
だが、オレが動き出すのを出し抜き、ひときわ大きな声が後ろから届いた。
「おかあ…さん!?」
「ことねっ!」
猛然と走り寄ってきたのは、なんと、琴音ちゃんの母さんだった。
「ことねっ、ごめんなさい…ごめんなさい………ごめんなさいっ…」
あの雨の日、琴音ちゃんが子犬を抱いてしたように、
琴音ちゃんの母さんが、人目はばからず、琴音ちゃんにすがり付いて涙を流しはじめた。
その嗚咽とともに、俺達は真実を知った。
琴音の母親は、この街で生まれた男と結婚。琴音を産んで、彼の親と同居して住み始めた。
だが彼女の方はこの北の街に住む気はなかったらしい。いずれ独立して、家族だけで暮らすつもりだった。
それが『冬の悲劇』の引き金を引いたのだろうか。
その後二人の仲は急速に悪化。ついに離婚をむかえることとなる。
オレが見た夢の口論は、この時のやり取りだったのだろう。
幼い琴音ちゃんを連れ、琴音ちゃんの母さんは街を後にした。実家にも戻れず、女手一つで育てようとして、函館に住むことにする。
両親の離婚という衝撃を受け傷ついた琴音ちゃんの心に、函館の美しい風景は大きな慰めになったようだ。
当時、函館の街のどこへ連れていっても琴音ちゃんは大喜びしたらしい。
そして、やはり生活費が切迫し、許されて実家に戻る。
実家が在ったのが、俺の住んでいた街。そこで琴音の母親は、再び相手を見つける。
男が『二人目の父親』になりそうだと察した琴音は、自分が原因で別れられないよう、必要以上に行儀よく振る舞う術を身につけた。
事情も知らず、演技し続ける彼女に心引かれたのが、俺。
二人の仲はうまく進展し、3年生の時には『家族』旅行にも連れていってもらった。
オレに話した、イルカの思い出ができた旅行だ。
そして再婚。
転勤族である今の父さんに付いて、一家は函館に向かった。
そしてその時、あの想い出を琴音ちゃんから消すためなのか、それとも自分の中から消したかったのか。
琴音ちゃんは母さんから、ここがあなたの生まれた街よと教え込まれたのだ。
思い出せる記憶は函館からだったし、今でも気に入っていたから、琴音ちゃんもその言葉を疑う事などなかった。
こうして幸せの日々によって、琴音から一人目の父親と雪の街の記憶は薄れていった。
ずっと、それが続くと思われていた。
だが中学生になる頃、琴音の身の回りで奇妙な現象が起こりはじめた。
それが琴音自身の引き起こしているものだと判明するまで、そう時間はかからなかった。
しだいに回数は増え、一家は逃げるような転勤で余所へ移り住んだ。
だが、余所でもそれは一向におさまる気配を見せず、いつしか周りには誰も居なくなり、琴音の心はまたも深く傷つけられた。
加えて、両親の共働きが、さらにその傷口を広げた。
外で働くことが習慣になっていた琴音の母親は、転勤を繰り返しても惰性でそれを続けていた。チカラの発動後も、それは変わることはなかった。
むしろ収入を得て、どうにもできない不幸を抱えた苦しみを、金銭でなんとかなる幸せで消そうとしたのだろう。
自分の不在を、もう琴音は慣れているだろうと思い込んで。
だが、今まで孤独を癒してくれていた学校や友達は、もうその役目を果たしてくれてはいなかった。
日常化した孤独。琴音は、学校でも家でも、独りぼっちで痛みを抱え続けていたのだった。
そこからはもういいだろう。
琴音ちゃんはオレと出会い、オレの言葉を信じて特訓して、自殺まで口にするほど苦しみ続けた末にチカラをコントロールできるようになり、
そして、藤田が自分の傍を離れ、居場所を失い、三度心を傷つけられ遂に――いや、やっとなのだろうか、ここに戻って来たというわけだ。
「そんな馬鹿なことがあるわけがない、絶対あなたを離さない、だから私は、不自由な思いだけはさせまいと思って働き続けた。あの人が一緒になってくれて、パパがいないって悲しむこともなくなったし、きっと幸せだろうって思ってた」
寒空から、雪が振りだしていました。
「でも、あの力があなたに起こって……結局アレが言った通りになった、そして、まさか家出するなんて、思わなかったから。…一度諦めたのよ。もうあなたはアレのところへ行ってしまうんだって、それで、それで幸せになるんだったらいいってっ」
「ママ…っ」
粒の小さい、粉のような、本当の北の土地に降る雪でした。
「でも、納得できなかった。あなたがいなくなるなんて…耐えられなかったっ! なのに、あなたがこんなにも思いつめるまで、なんにもわかってなかったのね…」
ずっとママはわたしが帰ってくるよう、祈り続けたといいました。
「そうしてて、やっと気付いたの、待ってるだけじゃダメだって、あなたに会って、直接謝らなきゃ、許してくれないだろうって……そしてあの家の前であなたを見かけたのに…走り去って…」
今日、わたしは、もう一つの家に辿りつきました。
パニックになって、なにも考えれず走り出したあの瞬間、ママがあそこに…。
なんて酷い。
酷い。
ママはどんなに傷ついたのでしょうか。
「ごめんなさい。わたしも寂しいっていわなかったから、ママもパパも分からなかったんだと思う…わたしこそ、心配かけて、ごめんなさい…」
みんな、もう少しだけ素直だったら、こんなことにはならなかったかもしれないよね。
「………」
「え、信じてあげてくださいって、ずっとここに立っていたのですから、って、ママ?」
「必死で追ってあなたがここまで来たのは分かったけど、怖くて、いまさらどんな顔あなたに会えばいいのかって思ってくよくよ迷ってただ立ち続けて…」
オレが来た時から…オレが早く気付いていれば…。
昼間とはいえ、この街が凍えるように寒いことに変わりはない。ましてや今、先輩が来るまでの夜は。
「バカみたいですよね…」
それを…
「きっと報いでしょう、ずっと、安っぽい物語のように翻弄されていたんですから」
親子だよ、やっぱり。
こんな時に、ひどく場違いな事を考えた。
「姫川さん、自分を責めても始まりませんよ」
「……はい」
「昔は立場が逆でしたね」
顔に手を当てて、秋子さんが微笑んだ。
そうか。
一個だけ浮いてたあの夢は『この街にいた時の琴音ちゃん』の夢だったんだ。
寝ていたところを起こされて、「おはよう、ことねちゃん」と言ったのが、水瀬。
それを連れていた人が、秋子さん。
「ママ……パパは?」
「函館であなたを探してる。さっき連絡したわ、心配しなくて大丈夫」
そう言うと、ぱっとオレに向き直る。
「一週間前、大層冷たい夫婦と思われたでしょうね、お許し下さい」
「いえ…男として、姫川さんのお父さんの気持ちは分からんでもないです」
直接血の繋がりのない娘が、突如原因不明の超常現象に苦しめられたとき、なんて言葉をかけてやればいいんだろう。
オレだって自分が父親だったら、そっとしておくというお題目で、距離を取ってしまわないとは言い切れない。
お互いを傷つけ、傷つくことを恐れるあまり、いつのまにか大きなすれ違いが産まれていたのだ。
「よかったな…」
その一言だけ、ようやく呟いた。
もしこの光景を見てもクサイお涙ちょうだいだという奴がいたら、オレはそいつを何日でもぶん殴ってやるだろう。
「な~んだ、私たちの出る幕は無くなっちゃったみたいね」
直後、さらに別方向から声が飛び込んで来た。
それに聞き覚えのある先輩とオレ、セバスチャンが周りの倍驚く。
「……っ!?」
「綾香っ!? ってねぇ、叫んでやりたいのは私の方よ姉さん。妹の誕生日ほったらかして優雅に旅行なんて、ちょっとひどいんじゃない?」
確か先輩の妹で寺女に通ってる、綾香。今日が誕生日だったとは知らなかった。
つーか、重要なのはそんな事じゃない。なんでその綾香が、ここに来ているかということだ。
「綾香お嬢様、私達、というのはどうことですかな?」
「こういうことよ。ほらあなたたち、出てきていいわよ」
「姫川さんっ」
「森本さん…!?」
直接関係のない水瀬家の人たちでさえ、驚いていた。
それも当然。いつのまにか止まっていたもう一台の車の影から、男女混合5、6人の高校生が、姿を現せばな。
「姉さんが出てってから、姉さんの高校で連続失踪事件って噂が流れてきてさぁ、こりゃなんかあるなと思って話を伝ってったら、長岡志保って子紹介されたの。で、会いに行ったらこの子たちがいるじゃない。事情を聞いて、私がこっち来るついでに一把げにして連れてきたのよ。」
「綾香お嬢様、それでも何故ここだと分かったのです」
「セリオのGPS使えばウチの特殊リムジンの位置なんてチョロイわよ。まぁ黒服数人に、ちょっと痛い思いしてもらったけどね」
「どうして……?」
綾香たちと正反対に、琴音ちゃんの方はあ然呆然、まともに反応できてなかった。
「そ~んなの決まってるじゃない。ねぇ?」
「そうそ」
「絶対分かるとおもうけど?」
森本さん、の言葉に残りの連中が口々に同意する。
「え…?」
森本さん、は元気よく言った。
「姫川さんが、クラスメートだからに決まってるじゃない!」
「綾香、お前まさか…?」
オレは近づき、小声で浮かんだ懸念を口にする。
「………はぁ? ばっかねぇ、いくら私でもサクラを連れてくるほどお人よしじゃないわよ」
綾香はくだらないオレの疑念を笑い飛ばすと、大声で琴音ちゃんに呼びかけた。
「姫川さんだっけか、大丈夫、ここにいるやつらの言葉はいくらクサくても信用していいからっ!」
「ううん、私たちだけじゃないよ、今来られる人だけしか来なかったけど、みんな、姫川さんが帰ってくるの、待ってるんだからっ!」
わたしのために、こんなに多くの人が、動いてくれていたんだ。
みんな、冷たくなんかなかった。
わたしがかたくななままで、疑って、受け入れてなかっただけなんだ…。
もう、ひとりじゃ、なかったんだ…。
わたしは、今日までお世話になった水瀬さん達に、もう一度向き直りました。
「今日まで、本当に、ほんとうにどうもありがとうございました!」
秋子さんが、わたしに近づいて、手に小さく固い物を、握らせました。
それは、合い鍵でした…。
「また、何時でもいらして下さいね」
言葉が耳から体の中へ、心臓も頭もぐらぐら揺さぶって、もう自分がどうなっているのか分かりません。
「よかったな、琴音ちゃん…」
藤田さんが、崩れそうなわたしを、後ろからそっと包んでくれました。
迷惑をかけていた事への恥ずかしさ。
逃げていた情けなさ。身勝手な自分への嫌悪。
無知への怒り。今日今までの時間を捨てていた悔しさ。
みんなへのありがとうの気持ちと、もう安心なんだといううれしさで、
藤田さん、いえ、浩之さんの胸に顔を押し付け、
みんなの前で、子供のように、わたしは7回分いっぺんに泣きつづけました……。
「行っちゃったね」
家の前の大人数が去り、名雪が一言発して、俺から安堵の息が漏れた。
「よかったな、琴音」
戻る場所があってな。
そして、羨ましく思う。
琴音は霞んでいた記憶を、はっきりと自分の物にしたから。
俺の7年前も、琴音のように戻る日が来るのだろうか。
その時はぜひとも伝説や運命は抜きにしてもらいたい。
「今度は忘れ物はないよな」
「大丈夫みたいだよ」
「名雪と違ってしっかりしてるもんな」
「祐一には言われたくないよ」
「何だと? んなこと言うのはこの口かっ!」
「わ、ひたいひょ~ゆふいひ~」
「一つくらいあったほうがいいんじゃない?」
名雪の口に突っ込んだ指を慌てて離し、突き飛ばす。
部屋に戻ったはずの秋子さんが、忍のように背後に立っていた。
実に心臓に悪い人である。
「どういうことです?」
「祐一、痛い」
「だって、何か忘れていったら、それを理由にまた来てくれるじゃない」
秋子さんの横顔は、心なしか寂しそうだった。
「そうだね」
たった1週間だけだったけれど、見なれた顔がいなくなるのは寂しい。
……。
その感情につられるように、ゆるりと、疑問が鎌首をもたげた。
一週間、俺は夢で琴音の過去を見続けた。
『今までずっと一緒に過ごしてきたんだ』と他人に吹聴しても困らないくらい、詳しく知った。
何者かわからないが、そいつは、なぜ俺にそんな夢を見させたんだ?
琴音と離れていた時間を埋めさせて、俺に一体何をさせたかったんだ?
先ほどの話からすると、妖狐が俺の初恋を実らせて、琴音をこの街に引きとめさせようとしていたのか? 馬鹿馬鹿しい。
俺には栞がいるっていうのに。
――美坂さん…1学期の始業式に一度来ただけなんです…
栞が好きという気持ちは変わらないのに。
――本当はその日もお医者さんに止められていたんです。でも、どうしても叶えたかった夢があったんです
……。
――暖かくなったら、この場所で一緒にお弁当を食べるって約束したこと…そして、そんな些細な約束をあの子が楽しみにしていたこと…
――全部、悲しい思い出
栞がいなくなって、琴音を好きになるという選択肢は、ありえないはずなのに。
その時、居間の子機に受信を知らせる赤ランプがともった。
「えっと、水瀬でいいんだよな」
名雪に確認し、電話を取る。
「はい、水瀬です」
聞こえてきたのは雑踏。と、
「………相沢、君……?」
「先輩、悪いな、ホテルまで取ってくれて。実はもう財布がピーピーでさぁ」
「少しは後先考えなさいよね」
来栖川さんの方で、ホテルを取っていたそうで、今はみんなでそこに向かっている最中です。
森本さんたちクラスのみんなは、修学旅行みたいにはしゃいでいます。
そして、もうお金がなかったらしい浩之さんは、さらにはしゃいでいました。
わたしは、さっきまで泣いていたことが恥ずかしくて、浩之さんのそばにいました。
「……」
そんな中、来栖川――芹香さんだけが、ずっと押し黙ったままでした。
「先輩、もしかして怒ってる?」
「……」
「さっきは琴音ちゃんのことで、頭いっぱいでさ、ついカッとなっちまって」
「……」
「せんぱ~~~い」
芹香さんはまったく答えませんでした。
いや、浩之さんの話し掛けが、耳まで届いていないようでした。
「姉さん?」
「せんぱ~いってば~」
そう言いながら笑って覗き込んだ浩之さんの顔が、笑みから動かなくなりました。
続いて、綾香さんの顔が。
最後に、横顔しか見えませんでしたが、わたしが。
戦慄と言うのは、この顔を見たときの言葉なのかもしれません。
理由のわからない不安で、温かい車の中にいるというのに、体の奥底から震えるような感触がしました。
そして。
誰に言ったのかわからないですけど。
降り注ぐ雪の結晶に吸い込まれそうな声量でしたけれど。
一言だけ、漏らしたのが聞こえました。
「………まだ、何も、終わっていません……」