「ただいま」
リビングのテーブルにぼーっと座っていたわたしは、がたんと対面の椅子を倒してしまいました。
一瞬上の階へ逃げ出そうとしましたが、ふたりの声があまりにも明るかったので、居座ってしまいます。
気まずい気配を、二人とも忘れてしまったのかと錯覚して。
足音が近づいてきます。相沢さん、名雪さん、と……友達でしょうか? 足音が少し多いです。
秋子さんが友達かしらと呟くのが耳に止まりました。
ドアが、開きました。
「ただいま」
「ただいま~」
「おじゃまします…」
そして、
「よぉ、琴音ちゃん。久しぶりだな」
わたしが引きとめるのも間に合わず、意識が別世界へ逃げてしまいました。
息も止まりました。
自分だけが時から取り残されたふうにも見えました。
「ヒロくん、ねえ、あの子が琴音ちゃん?」
「あぁそうだ」
わたしを確認する会話だということはわかります。でも、一体何が起きているのでしょう。
後ろから肩に手がぽんと置かれ、電気ショックを受けたように身体が震えました。
「琴音、たぶんだけど…知ってるよな、男の方は」
ショックを受けてから1分後、ようやく第一声がでました。
「ふじた…さん…?」
よぉと言ったまではいいものの、次に何を言おうかオレは困った。
声を荒げて、また逃げ出した事を怒ろうか。
親戚? と軽いジョークから入ってみるか。
ストレートに、探したぜ、と言ってしまおうか。
「あの…その子は?」
間を持たせようと、戸惑った声で琴音ちゃんが先に話しかけてきた。
その子と言った視線をトレースする。
……オレの隣。とゆーことは、琴音ちゃんも…
「やっぱり琴音もそう思うよな」
「うぐぅ………ひどすぎるよぉ…」
あゆの膨れっ面が半泣きになっていた。
「月宮あゆって言うんだ。この街で知り合って、一応オレと同い年なんだけど…」
「えっ、あ、あ、つ、月宮さんすみませんでしたっ」
自分のしていた(まぁ無理もない)誤解に、琴音ちゃんは火が付いたように真っ赤になった。
「わはははは」
「うぐぅ…」
あゆには悪いが、おかげで無駄な緊張をせずに話が出来そうだぜ。
「あら、お友達?」
台所の方から大人の女性の声がした。
偶然とは恐ろしい。
「どうもはじめまして。水瀬秋子です」
その人は、昨日森で花を供えていたあの女性だった。
「あ、あの」
「はい?」
…うっ。
笑顔と優しい言葉尻と対照的に、強い制止の篭もった視線にオレは気圧された。
間違いなく昨日の件が関係しているのだろうが、どうしてもオレとの関係を「はじめまして」にしたいらしい。
「あ、どうも、オレ、藤田浩之っていーます」
「藤田さんはわたしの学校の先輩なんですよ」
「そうなんですか」
後で聞こう。あの人と二人きりになれれば、だけどな。
「んで、オレまで犯罪者の汚名を着ることになったわけだ」
「あの足の速さでよく捕まらなかったよな」
「だって、お金がなかったんだよぉ」
本件はとりあえず置いておいて、あゆを話の種に、まずは琴音と藤田を話させることにした。
「話せば話すほどぼろが出てくるな」
「うぐぅ…後でちゃんとお金払ったもん…」
「でも、本当においしかったですよね、たい焼き。その気持ちわからなくもないですよ」
「えっ、琴音ちゃんが食い逃げするなんて、オレは考えたくねーぞ」
「あ…」
「うん、おいしかったよ。イチゴが入ってるともっといいんだけどね」
「それはちょっと合わないと思いますよ…」
「…名雪さん、ボクもそれはあわないと思うよ」
「(……水瀬って、なんて言うか普通の感性とすこしずれてるよな)」
「(一応、俺の従兄妹だけどな……別にフォローは期待してない)」
うまくいっている。
口にこそ出さないが、あゆの存在はありがたかった。
あゆがいなかったら、まず藤田に気付けたかどうかも怪しいところだった。
「あら、大分時間がたっちゃってるわね」
洗濯物を抱えた秋子さんが、俺達の前で足を止めた。
「今晩は人数も多いし、お鍋にしましょうか。えっと、6人分かしら」
どうやら秋子さんは朝飯だけでなく、夕飯も赤の他人に振る舞う気のようだ。とことんまで賑やかな食卓を求める性(たち)らしい。
「あ、ボク、夕ご飯までには帰るから…」
ところが、予想に反してあゆは、そうぽつりと漏らしたきり、だった。
「朝メシは平気で食いに来るくせに」
「あんまり遅くなると、お母さん、心配するから」
「暗い中帰るのが怖いだけだろ」
「……違うよ」
からかうセリフにも、まともに取り合おうとはしなかった。
「残念……」
「……それじゃあね、ヒロくん」
玄関まで見送ると言うオレたちを制して、あゆはここでオレとお別れを始めた。
「いつかは藤田に借金返せよ」
「うぐぅ、あれはおごってもらったんだもん」
最後までうぐぅだな。これだけ繰り返されると、何年間も忘れそうにないぜ。
そうだ、帰ってからあかりに使ってみっか。ぽかんとして、慌てふてめくさまが目に浮かぶな。
「一週間手伝ってくれてありがとな。楽しかったぜ」
それでも、あゆ本人とは、ここでお別れ、か。
……。
心がざわつく。落ちつかねえ。
……。
あゆ。
琴音ちゃんを追ってこの街に来なきゃ、一生会うことなんかなかっただろうな。
これから生涯、再会する確率なんかきっとゼロに等しい。
偶然にも程がある知り合いなんだ。
……寂しいな。
そっか、オレは寂しがってるんだ。
今の知り合いはずっと同じ場所で顔をつき合わせてるから、久しぶりに『別れ』ってのを感じてるんだ。
「……ボクといて、楽しかった、の?」
ふと見ると、あゆは、出会ってから3度目のシリアスモードへと変わっていた。
オレの『楽しかった』というセリフで戸惑ってるみたいだった。
……。
迷惑かけてた、と思っていたのだろうか?
何にも手伝えなかったと気に病んでるんだろうか?
「あぁ」
ヤバイ。 1語しゃべるだけでジンとくるぜ。
じわじわ痛んでくる気持ちを隠したくて、でも、今の言葉は本心だと念を押すため、オレは続けた。
「辛い毎日になるはずだったのに、あゆにあえてすげー楽しかった。お前の探し物は見つけれなかったのが残念だけどな」
するとあゆは、
「ううん、気にしないで。それより…」
不自然に言葉を区切り、大げさに息をごくっと飲んで、
「ボクも、楽しかったよ、それじゃね!」
ぱっと笑顔で、元気のいい言葉を残して、ドアの向こうへ消えた。
「じゃあな!」
その見えない背に、オレも景気のいい声をかける。
そうしてまもなく、
どがっ!
廊下から転倒音と、うぐぅ痛いよぉ~と聞こえてきたが、感動を損ねるので、気付かないふりをしておく。
「慌てて帰る用事でもあったのかしら?」
夕食に誘えなかったのがそんなに残念だったのか、怪訝な面持ちで水瀬秋子さんが誰にとなく問う。
「いえ、あいつは年中暇人です」
「そうかしら……ね」
……この声だ。
昨日もそうだが、全てを知り尽くしてるような声。
……不思議だ。
「それじゃあ、5人分、作りましょうか」
だがオレの探る視線に気付いたのか、ものすごく自然に、水瀬家の家主秋子さんは気配を変えてしまった。
「お母さん、手伝うよ」
「あ、わたしも手伝います」
「こんな時男は暇だよな」
「その言葉、なんか使用場所を間違っている気がするけど、いっか」
相沢の言葉を軽く流しながら、オレは全然暇じゃなかった。
台所に立ってる琴音ちゃんの後ろ姿に見とれてるような状態になっていた。
楽しそうだな。
完全に家族の一員になってるよ。まるでオレが琴音ちゃんにお呼ばれしたみたいだ。
と、待てよ。
今の状況って赤の他人の家で琴音ちゃんと一緒に晩ご飯……
これって、実はメチャクチャレアな体験なんじゃないか? 発生率にして、交通事故に一日に2度遭うようなもんじゃないか?
ぱっぱぱ~ん! おめでと~~~~~。
……なんてファンファーレならしてる場合じゃねーな。
本来の目的を忘れちゃいけねえよ。さてはて、今からどう切り出そうか。
……。
台所に立ってる琴音ちゃんの後ろ姿。
本当に楽しそうだ。
……。
オレの行動、本当に正しいのかよ…。
なんのトラブルもなく準備は出来て、女性陣の作ったおいしい食事はつつがなく進んだ。
いや…でもない。
琴音も藤田も、お互い直接は話さず、必ず俺を通して会話している。
二人とも、自分達の出会いが何を意味しているのか、十分分かっているのだろう。
その関係を崩しにかかったのは、琴音のほうだった。
食事を終え、食器を片付けながら、顔も見せずに藤田に呼びかけた。
「藤田さん。……少し、お話しませんか?」
来るべき時が来た……。
こうなるのは、もう分かりきっていた。
藤田からか、琴音からか、問題などただそれだけだった。
そして、二人が部屋を出てから、間もなく15分がたつ。
「名雪…どうだろうな」
内容もあいまいな質問を俺は振った。
「…複雑だよ」
背向けのまま、ついてないテレビに向かって、オウム返しに曖昧な答えが返ってきた。
「もう少しだけ、忘れてたかったな……」
ソファに座りなおす音さえ耳に付く部屋で可能な時間つぶしは、こんな会話が手一杯だった。
「理屈じゃ片付かないことばっかりだね」
「……あぁ」
針が文字盤を半分まわった頃、リビングに藤田が戻ってきた。
「……どうだった」
「今日までの話をもう一回して、聞かせてもらって、家出理由を問いただしたさ…」
――チカラが暴れないと、誰もわたしを見てくれないんですね。
――ただ、かまって欲しかっただけなのかもしれません…
「オレにも、原因の一端があったんだ…」
それだけですべてを理解したらしい。
琴音の本音。
自分の居場所を見つけられなくて。それがあることを確かめたくて。それで、家出をしてみせて……。
「そして?」
「一つだけ質問されたよ」
――藤田さん。藤田さんはなぜこの街に来たんです?
酷(ひど)いな、琴音も。
こうなることを、こんな奇跡を、自分が一番望んでいただろうに。
決して容易には答えられない問いだった。
琴音が好きだから、などと言ったとしよう。
すると藤田は春から今まで距離を取ってきた事について説明せざるを得ない。
だが、好きでもなんでもない人間のために、学校を1週間もサボってこんな遠くまで来るということがあるだろうか。
反対に、ただ連れ戻しにきたといえば、おそらく……。
いや、藤田だってそんな言葉で戻したいとはさらさら思ってないだろう。
どちらに答えても、追い詰められる非情な問いだった。
(いや……酷いのは藤田のほうか。)
琴音だけじゃない、あゆにも。そして、きっと幼なじみにも。
誰にもかれにも優しいことが、今は災いしている。
「どうしたんだ」
「答えたさ」
(藤田、お前は受け止めきれたのか?)
(お前しか頼れない俺達が、言えた口じゃないけれど、)
(今、すべてがかかったこの状況で、お前は琴音にどうしてあげたんだ?)
「……」
「……」
重く粘り出した部屋の空気。
秋子さんからも名雪からも、それは再び言葉を奪っていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
頂点に達した沈黙に耐えきれなくなったのか、玄関の呼び鈴が鳴った。
一度。ニ度。
ややあって、秋子さんが玄関側の扉を開けた。
「藤田さん、お呼びです…来栖川さんという方から」
「先輩?」
「来栖川?」
「来栖川芹香。オレの先輩だ」
「クルスガワエレクトロニクスとかの、あの来栖川か?」
「そう」
「…冗談だろ?」
「マジだ」
「先輩?」
玄関でオレを待ってたのは、やはり正真証明、来栖川先輩だった。
「……」
「すみません、寒いでしょうが、外でお話しませんか……ちょっと待ってくれよ」
一旦玄関に戻りかけてあったコートを引っ掴んで、ボタンも留めずに外に出た。
「なんでオレがここにいることがわかったんだよ?」
オレは、まずその疑問をぶつけてみた。
先輩は答える代わりに、両手に乗せたノートパソコンを開いた。
ディスプレイに、カーナビのように地図が映っている。その上でピコピコと点滅する光の点。
「発信機かよ、いつの間に………携帯電話か!」
いつか借りた、先輩の携帯電話。あれを逆探知してたんだ。
「来栖川エレトロニクスのサテライトサービスの一環、GPSだ小僧」
執事のセバスじじいもちゃっかりいた。
オレへの言葉使いが気に触ったのか、先輩は不満げな目でセバスチャンを(恐らく)睨んだ。
視線に押されセバスチャンは一歩後退。ざまみろってんだ。
「んにしても先輩、なんでオレを追跡調査してたんだよ~。オレ、先輩になんか悪いことした?」
「どうしても、言わなければならないことがありましたから…」
先輩がオレを見据えた。
瞬間、背中に鉄の棒を入れられたような気がした。
先輩の目は、怖いくらい真剣だった。
「この前電話してきた時の、不幸の話?」
「それとも、関係があります…」
まるで間合いを計ったように、藤田と入れ代わりで琴音が階下に下りてきた。
何か告げようと意を決して来たのだろうか、リビングを見渡したとたん、気抜けしたような雰囲気を漂わせた。
「相沢さん、藤田さんは…?」
「たった今、来栖川とかいう人に呼ばれて、外へ出ていったよ」
名雪が眠そうな声でテレビ前の位置から教える。
漏れた、え、という短い音。
次に俺が耳にした音は、玄関へ向かう駆け足だった。
「琴音ちゃん、コートも着ないで外に行ったの?」
「祐一さん、何か防寒着をもっていってあげてください」
「分かってます」
身体が麻痺するような夜の空気が、思い出したようにオレを襲った。
風が、吹く。
「浩之さん」
「藤田さ…」
「姫川さんを置いて、帰ってください」
雪に似つかわしくない黒塗りのリムジンの前に、先輩がいる。
その対面に、オレがいる。
そして、水瀬家の入り口に、琴音ちゃんが現れた。
「浩之さん、妖狐伝説というものを、知っていらっしゃいますか…?」
先輩がここまでちゃんと声を出せる事を、オレははじめて知った。
「いや、知らない…」
「そうですか…では…」
雪の静寂を増すような、先輩の声が語り出した。
………日本各地に――この街では、ものみの丘と呼ばれる場所――には、不思議な獣が住んでいるのだそうです。
………古くからそれは妖狐と呼ばれ、姿は狐のそれと同じ。多くの歳をえた狐が、そのような物の怪になるのだそうです。
………それが姿を現した村は尽く災禍に見舞われることになり、厄災の象徴として厭われてきた……
「そう伝えられてきました。しかし、この街では違ったのです」
「違った…?」
「この地に生きる人達は、妖狐達と共存する道を選んだのです。彼らを畏れ敬う代わりに、彼らの不思議な力を利用する道を。そのため、この街が大きな飢饉や天災に見舞われる事はなかったのです」
………しかし他の土地はそれを知らない。災害が起こるたび、それを妖狐の仕業とし、恨んで排除しようとしました。
………そのような迫害から彼らを守るため、この地の人々は余所からやってくる人間に極度に辛く当たるようになりました。
………この街を外と切り離し、妖狐と自分達との蜜月を壊さないように……
「そして、現代でもその魂は生き続けています。…浩之さん、この街に来たとき、何か違和感を覚えませんでしたか?」
違和感。
一週間前、寒さのせいにしてしまった、あの奇妙な感覚…。
「古い魂達は、いつしか余所からもたらされる変化をも拒み、妖狐たちと力を合わせ、街を閉じたのです」
1週間の奇妙な出来事が、気にも止まらなかった小さな事が、パズルのように組みあげられていく。
携帯電話が見当たらない雑踏。
メイドロボがいない街角。
不思議なキツネに付けられたこと。
極端に古いままのゲーセン。
そして、誰かの悲劇をオレに与えた夢…
「人の流れを極力止め、人々を束縛する力です。それにより、秘密を共有する…ここで産まれた人は、たとえ街を離れても、幾歳月を超えて、必ず戻ってくるのです」
…いいや、そんなバカなことってあるかよ。
オカルトもオカルト、いまどき妖怪が、人間の世界を束縛するなんて。
「先輩、世の中には確かに不思議な事はあるけどいくらなんでも……だいいち琴音ちゃんはこの街と縁もゆかりもないじゃないか」
「お嬢様は、嘘など言われません」
セバスチャンが口を挟んできた。無理して敬語を使ってるせいか、唇が小刻みに震えている。
「これを……多少の越法行為ですが」
片手で紙をもち、セバスチャンが指す。
固い指の先にあったもの…
「姫川、琴音……そんな…」
そこには、函館で生まれたはずの琴音ちゃんの名が載っていた。
疑えっこなかった。その紙は出生届出と過去の住民票だった。
その誕生日は、ピタリ、10月9日。
「嘘だろ、デタラメだ、同月同日生まれの同姓同名に決まってる!」
それでもオレはとにかく否定したくて、ムチャクチャな叫びをあげた。
「いいえ藤田さん」
その時、ずっと押し黙っていた琴音ちゃんが、言葉を割り込ませてきた。
「嘘じゃありません。わたしは…確かに、この街で生まれました」
「わたしは…確かに、この街で生まれました」
突っ立ったままの身体が、衝撃でたじろぐのが感じられた。
「この1週間、毎日夢を見ました、自分が子供の頃の夢を。そのうち何度も、雪の積もった街並みを見ました」
夢。
(琴音も俺と同じように、夢を…。)
「今日、気付いたんです。夢で見た雪の景色はこの街の道だって」
ただの偶然じゃなかったのか。
「どうして離れてしまったのか、なぜ忘れてしまっていたのかはまだ分かりません。けど、この街で暮らしていたのは嘘じゃありません」
琴音は、この街で生まれたのか?
(じゃあ、俺が会ったのは、あの夢の女の子は誰だったんだ。)
それより、
「生まれなかった人間は……他から入ってきた人間は?」
タイミングも立場もわきまえず、夢中で聞いた。
霞んで見えない7年前の記憶にそれは…。
「相沢!?」
「無断で立ち聞きしたのは謝る」
「この街も、完全に滅びてしまわないよう、ある程度は人を引きつけます。しかし…」
セバスチャンが、一枚の紙を投げてよこした。
「妖狐と人との関係を乱す者として、その殆どが冬が訪れた時、離れさせられるのです」
「……!…」
渡されたのは、人口動向だった。
…異常だ。
その一言ですべて説明出来た。
街の人口と動向の割合がどう考えても少な過ぎた。転入者も少なすぎるが、普段の年間転出者合計が1桁なんて、絶対ありえない。
そして数年おきに、しかも冬に、ため込んだのを吐き出すように、急激に転出していくのだ。
「詳細を」
セバスチャンは束を半分ほどめくった。
その続きは、
「…私(わたくし)も、我が目で確かめた時には、戦慄いたしました」
………転出、死亡。 転入、転出。 転入、転出…
………転入、死亡。 転入、転出。 転入、転出…
来た時期がバラバラの人間が、申し合わせたように、ある年に集中して街を去っていた。
「身体にも、心にも、消えないくらいの深い傷を負わされ……たとえそれが、他の人間を傷つけても…」
――ボクも、この街に住みたかった…
――…そうね。
――この街は、悲しいことが多かったから…
「そして『冬の悲劇』を繰り返す……幾星霜にもわたって、永遠に…」
「先輩、もういいよ」
もう言葉は要らなかった。これ以上は琴音ちゃんを返す障害にしかならない。
だが、先輩は、言いきった。
「この街は、悲劇の街、なのです」
妖狐、魂、運命、冬の悲劇。
どれもこれも、琴音の超能力を見ていなければ、鼻で笑ってしまうことの連発だった。
だが信じる以外、俺には方法がなかった。
些細な関係すら持たなかった少女の過去を夢で見た経験に、他になんと理屈をつければいいのか。
琴音に渡すコートを握ったまま、身体の感覚を奪う風に吹かれて、時は経っていった。
「姫川さん、この街に来たとき超能力が一度大きく働き、」
もう一度琴音がびくりと震えた。
「そして、日に日に勢いを落として、安定したのではないですか」
「はい……向こうにいたときよりチカラの動きが穏やかになって、弱った動物を元気にできるようになりました…」
「ヒーリングかよ?」
藤田の声に小さく、琴音が頷いた。
「それが、何よりの証拠です」
琴音が喋り終わったのを見計らって、芹香さんが続けた。
「大きな暴走は、外で溜まった余分なエネルギーの放出、本当はもっと穏やかに行われるはずでしたが…」
「ってことは、オレが見た商店街のあれは」
「あぁそれは俺が証言する。琴音の『チカラ』だよ。慣れない土地で、しかも風邪気味だっていう不可抗力の状態でだったけどな」
「……」
俺の言葉は、藤田を完全に沈黙させた。
ほぼ真正面にいる琴音の顔。
今は、覗き込む気にもならなかった。
「そして力の安定は、街があなたを受け入れようとしているからです」
琴音に向けた口を開いたまま、芹香さんは藤田に向き直った。
「もしこの街を離れれば、力の安定は崩れ、前のように暴走が頻発するでしょう。今は押さえ込めるようになったと聞いてますが、」
そして、琴音を見ずに、痛いほどの間を開け、途切れ途切れに、
「おそらく、これから、ずっとあなたは…」
あの喜びの顔。
(あれが、逆に枷となるのか)
自覚していた事と合っているから理解は出来たけど、あまりにも非現実的過ぎで突拍子過ぎる。
とにかく、要約すると先輩はこう言いたいのか。
琴音ちゃんは普通じゃねえから、オレたちの住む街ではなく、この街にいるべきなのだと…。
「先輩、一つだけ答えてくれ。なんで今ごろ伝えに来たんだ」
先輩。悪いけど今だけはオレ、先輩に笑顔が向けられねえよ。
感情を剥き出しにした面で、オレは聞いた。
「姫川さん自身の口から『帰らない』と聞かなければ、きっと浩之さんは納得されなかったでしょうから…」
オレは琴音ちゃんを振りかえった。びくりと肩が震えるのが見えた。
「琴音ちゃん…」
「琴音さん」
「秋子さん、名雪」
「祐一が戻ってくるのが遅いから、心配になって」
水瀬家の人たちも、外に出てきていた。
「………」
琴音ちゃんは今、何を考えているんだろうか。
この話に、やっぱり物思うところがあるんだろうか。
ここまでの証拠を突きつけられ、うさん臭さはとうに消えている。
ゲームや小説なら中盤戦。ここから街を支配する運命の謎を解き、解放するための新たな冒険が始まるんだろう。
だが、オレたちには時間がない。
「なぁ琴音ちゃん、もう一度言うぜ」
ギャラリーが集まってしまったが、オレはもう一度、あの問いの答えを言った。
………なんも関係ない女の子だったら、当然オレは追いかけないぜ。
………もし志保だったら、たぶん追いかけない。たとえ虹の根元を探しに行っても、あいつなら大丈夫だと思ってるから。
………あかりだったら……正直どうかわからない。まだなったことがないから、保証はできないけど、たぶん、追うと思う。
………でも、琴音ちゃんがいなくなったと聞いたときは、オレ、すぐにいてもたってもいられなくなったんだ。
………オレってやっぱり頭わりぃからよ、とにかくすぐ追っかけようとしか思わなかったんだ。
………琴音ちゃんが、心配だったから。
………子供扱いして怒るかもしれないけど、それでもオレは、琴音ちゃんが心配だったから。
「だから、追って来たんだぜ」
「藤田さん…」
結ばれていた琴音ちゃんの唇が、開いた。
そして、琴音は。
オレたちの、見ている前で。
一歩、踏み出した。