オレは体を持ちあげた。けれど上半身が起きたところで、再び沈み込む。
もう一度、無理やり体を起こす。鉛の塊が入っているように重い頭が、さらに痛んだ。
目を開けたくない…。
だけど、目を閉じれば地獄だった。
胃が重い…。食べ物を見ると、それだけで具合悪くなりそうだ…。
頭の鉛が、流れ込んだのかもな。
「あ、あんた、大丈夫なのかい?」
6日目に入り、すっかり俺の顔を覚えたおばさん従業員があんぐりとこちらを見た。
言われなくても、顔色が悪いのは承知済みだ。
「病院、連れてこうか」
「いや、いいです」
「朝食…いらないね、どちみちもう終わっちゃってるけどさ」
1階受けつけの時計を見ると、
「もう午後かよ…」
見事に午前を過ぎんじゃねえか。
夢遊病者のような足取りでオレは外へ踏み出した。今なら、誰にぶつかっても転がされる自信がある。
……原因は、悪夢だ。
今まで見た中で、最悪の悪夢だった。
男の子の前で、少女が決して果たせない約束をして、二度とさめない眠りに落ちていく。
いや、美しすぎる、
木から落ちた女の子が、非情な運命に殺されてゆくさまを見せつけられる悪夢。
昔の映画の様に、音はない。
時々視点が女の子に移るのか、少年が映り、なにかを必死に叫んでいるが、届かなくて…
指きりしようとする指の片側は動かなくて…
雪が流れる赤いもので溶かされる中、女の子はついに目を閉じ、
ようやく戻った音は、少年のすすり泣く声を奏でるだけだった…。
何も出来ず、声も出せず、喉をかきむしりたくような悲しみ、無力感が起きたはずの身体にまで付きまとう。
そんな、夢だった。
先輩の警告がこれだったとしたら、オレはなんてバカなマネをしたんだろうな。
もう一生、あの光景が頭から離れる事はないだろう。
「うえっ」
喉に吹きつける風が強くて、まるで首を締められてるように気持ちが悪い。食べ物の匂いが通るたび、胃にくる。
本当はおとなしく宿で寝てるほうがいいんだろう。だけど、あえてオレは外へ出た。
「今日は、あゆと会いたくねーな」
ただ、それだけは願った。この身体の調子で、お前の相手はムリそうだ。
商店街を急ぎ足で通過する。
さらに進む。
先輩に会った並木道。そこから、鬱蒼とした森の方へと足を踏み入れた。
そう、オレは、今からあの夢の舞台へ立とうとしているのだ。
子供がようやっと通りぬけられるくらいの草のトンネルを、這って進む。
ひざが汚れるが、そんなの構いやしない。
藪を踏み分ける。落葉を足で押し付け、枝を踏みちぎって音をたてて、とにかく進む。
ガキのあいつらにも遠かっただろうけど、今のオレの足でも遠いな、秘密の『学校』は。
そして、道程は終わった。
晴天なのに、曇天のように林床は暗い。
だが、そこにぽっかりと穴が見えた、木々の天井に。
あの日のまま、周りの時から切り取られたように、その場所は白く佇んでいた。
けれど、オレの目の前にあったのは、大樹ではなく切り株だった。
この森のいかなる木よりも、太い。
空に開いた穴は、時の流れと、失われた時を埋める術がないことを、訴えてるように見えた。
そして、その根元で、
「……」
ひとりの女の人が、花束と共に手を合わせていた。
「どなたが亡くなられたのですか」
失礼もいいとこだよな。
赤の他人がするには失礼な質問だと、十分承知の上でオレは聞いた。もし怒鳴られたら、黙って立ち去ればいい。
「違います。私は、この樹を悼んで花を供えていたんですよ」
え…?
「この木、を?」
「はい。あの時は感情に任せて切ってしまったけど、今考えればこの樹にも罪はありませんものね」
「あの時?」
どうも話が見えてこない。
「…旅の、方ですか」
「そうです」
「7年前、事故があったんですよ。この樹に登っていた子が、落ちて怪我をしたんです」
「……」
オレを向こうともせず、話だけが続く。
「そのあと、また子供が登って事故が起こらないようと、この樹は切られたんです」
半分は嘘だな。
オレは思った。
切り株から推定した木の高さは、数階建てのビル。中ほどからでも、落ちたらただのケガでは済みそうにない高さだった。
それに、
「…女の子ですね」
オレの言葉に一瞬身体を震わせたが、その人は、
「そうです」
と淀みなく、短く答えた。
喉から、吐き気ではない何かがこみ上げる。
オレと女性が立つ雪を、真っ赤に染めたあの悲劇。
あれは、決して夢の中だけの出来事じゃなかったのだ。
「……その子の名前、覚えていらっしゃいますか」
丁寧に首が横に振られた。
「何しろ、7年も前のことですから」
オレは森を駆け下りた。
あの夢は実在する。
それがなんなのか、ただ、確かめたかった。
だが、ない。
記事を書いたであろう新聞社はここからは遠すぎるし、7年前の新聞など、図書館では取っては置かないそうだ。
「こうなったら、あいつに賭けてみるしかねぇな」
手に持った携帯に番号を入力する。
『はいもしもし』
「志保か。いきなりで悪いんだが、お前を情報屋と見込んで頼みがある。今から言う新聞の7年前1月の記事に、木からの落下事故がないか調べてくれ」
『はぁ!? ちょっと、7年前って…ムチャ言わないでよ!』
「国会図書館でもインターネットでも方法は任せる。とにかく調べてくれ」
『あのねぇ、国会図書館ってのは18禁なのよ。しかも新聞のバックナンバーなんて』
「頼む、こっちにはもう残ってないんだ」
『頼むって言われても限界が…第一、何のために調べんのよ』
「その事故にあった人の名前を。子供だから。帰ってから3日お前のいうことなんでも聞くって条件をつける」
『……分かったわ。あんたがそこまで言うんだから、特別にタダで調べてあげる。でも、期待はしないでね』
「すまない」
無理難題に等しい頼みを、志保は引きうけてくれた。
再びオレは街に繰り出した。無駄でも、動かなきゃ気がおかしくなりそうだった。
制服姿の何人かがオレを指差したような気がしたが、構ってる暇なんかない。
もう時間がない。
琴音ちゃん、どこにいるんだ。
今日の夕飯は俺の提案でじゃがバターだった。
もっとも、これも昼見た夢のおかげだ。ここまでプライバシーを覗いてもいいのだろうかという疑問は、この際隅にのけておく。
そして、ものの見事に琴音は好反応した。
「好きなんだな」
「ええ…小さい頃、よく食べてましたから」
その後、みかんをついばむ。
「わぁ、甘い…」
冬の家には竹籠に入ったみかん。
炬燵はなくとも、これは動かしようのない日本の定説だと思う。
夕飯のあとだが、俺も2個目に手を伸ばした。
「祐一、種出さないの?」
3個目をせっせと口に運んでいる名雪が聞いてきた。
名雪の前には、几帳面に出された種と薄皮が、黄色い外皮に乗せられて集められていた。
「面倒だからな」
「…おなかから芽が出てくるよ」
ぺしっ。
「お前本当は何歳だ?」
「祐一と同い年だよ…」
「薬品かけたみかんの種が、芽を出すわけないだろ」
「きっと出るよ…」
「出ない」
「出るよ」
「出ない」
「出るよ」
「出ない」
「出るよ」
「でな…」
「こうしたらどうです?」
琴音が、口から出していた種を植木鉢の土に押し込んだ。
「実際にやってみたらいいんじゃないですか?」
「そうだね」
「負けた方が、一週間全教科ノート取りな」
「祐一こそ、芽が出たらイチゴサンデー3杯おごってもらうよ」
「もし芽が出てたら、引っこ抜いてやる」
「わ、祐一ずるいよ…」
「だいじょうぶですよ。そうならないよう、わたしが見張っててあげますから」
笑みをこぼしながら提案する琴音の声。
ふと、空気が灰色に変わった感触がした。
その言葉に、呼び出されるある感覚。
冷静な、理性の支配。時に無慈悲な、現実の真言。
「…琴音」
「?」
「この種が芽を出すまでなんて、一緒にはいられないだろ…」
「………」
琴音がいる、四人の生活。
いつのまにか慣れてしまって、忘れていた。
それは、永遠じゃない。
琴音は、あくまで家出をしてきた来訪者なのだ。
「……そうですね…」
俯いた顔は、古傷をえぐられた辛さを写し取っていた。
場は白けてしまった。
誰も、お互いに口を利こうとはしない。やがて、誰からとなく、おのおのの部屋へと散っていった。
「どうして先生はこの街を家出先にしたんです?」
昨日より構図の取れた絵を前に、美坂さんはそう聞いてきました。
「美坂さんは、夢ってよく見ます?」
わたしは逆に聞き返してみました。
「夢ですか? 私はあまり見ないです」
さらっと、画面に視線を移されました。
「だって、起きている時に叶って欲しいことがいっぱいありますから」
「絵が上手になりたいとか?」
意地悪そうに笑ってみました。
「先生ひどいですっ。…そんなこという人、嫌いです」
「そうですか。わたしは…最近毎日のように見るんですよ」
「どんな物ですか?」
「自分が子供の頃みたいで…」
わたしは、あの夢の話をしました。
そしてそれが、家出した原因だとも。
「雪の夢……ファンタジーぽくて、なんかかっこいいですね」
「そうなんですか?」
「いつもベッドで暇なので、いっぱい本を読んでますから」
「そういう話だと、どうなるんです?」
「そうですね…」
美坂さんは口に人差し指を当てて、少し考え込む仕草をしました。
「案外、昔のことを思い出しているのかも知れませんよ」
「え?」
「夢って、記憶を整理する時に見るらしいんです。何かのきっかけで、昔の記憶が蘇ってるのかもしれませんよ」
「わたしの…記憶…?」
「いまのはちょっと科学的で、格好よかったですよね」
「もうっ…からかうと、教えてあげませんよ」
「わ、先生すみませんっ」
それにしても不思議…。
会って二日目なのに、こんなに気軽におしゃべりできる…。友達って、こんなに簡単につくれるものだったのでしょうか。
なんてきれいな場所。
なんていい人たち。
ずっと、こうしていたい…。
画面を走る鉛筆の黒さえ、わたしの目には幸せな空色に見えました。
そう、空色に、見えていたのに…。
結局、わたしはどこにもいられないの?
わたしが悪いことをしているのはわかってる。でも、でも。
楽しい日々が、みんな幻なんて…。
外は雪明かりで白く輝いてるはずなのに、真っ暗なこの部屋が、現実の壁を形にしているように見えました。
もう、頭を働かせるのは止めよう。
布ずれの音をひどく立てて、自分をすっぽりと布団の中に隠しました。
また明日、美坂さんにあって、絵を教えていれば、きっとそんな事は忘れてしまえる。
きっと、忘れて…しまえる。
いずれ、琴音は帰らなければいけない。
だが、出てきたときから何も変わらない向こうへ、無理やり戻すことが果たして正しいのだろうか?
誰かが、琴音を迎えに来てくれれば。
……。
俺の脳裏を掠めたのは、藤田という名前だった。
藤田。
琴音の超能力に恐れず向き合い、制御できるまでにした男。
二人が、その後どうなったのかは知らない。
しかし、琴音の心に、今でも藤田は大きなウエイトを占めているはずだ。
琴音をどう思っているかは関係ない。
とにかく一度会って話をしてほしかった。
可能性がほぼゼロである願いだと分かりつつも…。
その考えが、眠りに落ちるまで離れることはなかった。
藤田。
きっとお前なんだ。
琴音を帰せるのは、きっとお前なんだ。