そう、この街で探し物をしていたのは、あゆではなく、本当は祐一の方だった。
予想を超える素晴らしい完結でした。
原作を知り、二次創作に触れ続けていましたから、結末は見切ったつもりで構えていましたが、浅はかでした。
京都アニメーションの用意した物語は、劇的な奇跡なんかで終わったりしませんでした。
沢渡お姉さんなら、その理由をきっとこう説いてくれるでしょう。
『種からいきなり花は咲かない。芽吹き、伸びて、蕾がついて、咲くべき時がくれば、花は、自分から開いていくの』と。
……“開花期”?
なんて――コト。東映版KanonのOPテーマ「florescence」が、こんなところでテーマになっていようとは。
京都アニメーションのKanonは、とうとう前作さえ包み込み、昇華してしまいました。
こんばんはあるごるです。今までは時間のなさと感情であっという間に書いていました感想ですが、今回は最後です。細かく丁寧に感想を書いていこうと思います。
感想を始める前に、名雪という少女に対して、私なりの考えをお話しようと思います。
名雪。
普段言われないことですが、彼女もあゆと同じく、7年間祐一を待ち続けた少女なんですよね。しかし、そこは同じ立場でありながら、名雪とあゆは、全く正反対の立ち位置にいる二人なのだと私は思っています。キャラとしては、極端に離れているわけではないんですが、根本のところでは真逆なんですよね。
片方は目覚めたまま、片方は眠り続けたまま。
片方は思いを寄せ、片方は思いを寄せられ。
片方は面影を残し、片方は面影さえ消してしまうように装い。
片方は母がそばにいて、片方は母がもういない。
運動神経、身体の成長、など、あらゆる意味で名雪とあゆは表と裏の存在と思っています。
だからこそ、あゆが選ばれた時、名雪を好きである人は納得できないのではないでしょうか。あゆと名雪がふたりとも笑顔で、お互い心の中まで幸せであることとは別の次元で、見ている私たちの中で、どちらの『価値観』『立場』を選ぶのか、二者択一が行なわれているのです。
でも、私の中では「7年間待っていた少女」という共通点の方が強く残っています。だから、名雪の扱いが悪かった後半は、多少オーバーなのも含め、怒ってました。名雪の姿は、もしかしたら、ありえたあゆの姿でもあると思うので――。
それでは、感想をはじめます。
【時のない黄昏空 草の波 流れる雲】
最終話の冒頭は、原作のタイトル画面の音楽「朝影」をバックに始まります。何事もなかったように寝ぼすけな名雪と、同じく何事もなかったように台所に立ち、新作のジャムを振舞う秋子さん。そしてOPを挟んだあとから始まる、名雪、栞、舞と佐祐理さんの復活した姿、姿。まるで祐一があの日『学校』で見た夢が続いているかのようです。
しかし、そんな幸せな日常に見える光景のBGMが、なぜか暗くありませんか? それもそのはず、この曲は「残光」といって、原作では不幸の絶頂のときにかかる曲です。
例えば――心を閉ざした名雪を置いて学校に向かわねばならない朝。あゆのことを思い出した日の朝。
これは、祐一の心の中の現れなのでしょう。高校生となって、表面上取り繕う術は覚えたけれども、あゆとの別れが心に深い傷を残し、まだ癒えないままだから。佐祐理さんの悪気ない一言に、消沈するのがそれを物語ります。
それにしても展開が駆け足過ぎ。「実はこれ、本当にまだ夢なんじゃないか」って思うぐらいに。まあ佐祐理さんが何気なくつぶやく「受験には間に合わず浪人」って(後期日程中の受験生の視聴者には大変厳しい)台詞が伏線なので、難しいとこ……。
【始まりの景色 切なく漂い 揺らめいてかすんで 消えるけど】
商店街で、普段からよく見聞きしている秋子さんさえ、あゆと間違えてしまう。秋子さんは顔を曇らせて、そして百花屋に舞台を移します。
店内に流れるのは、佐祐理さんがこの物語の主題を語った日と同じ『パッヘルベルのカノン』。視聴するこちらが、どこか懐かしささえ感じる舞台です。
秋子さんが水を向けてくれたことで、自分の口で初めてあゆとの別れを語る祐一。しかし、待っていたのは予想外の言葉でした。
秋子さんの言葉に、病院へ向かった祐一は、祐一はまたひとつ、あゆの真実に近づきます。
ひとりだけしかいない病室で、天使の人形を握ったまま、眠り続けるあゆ。そう、あゆは、まだこの世に繋ぎ止められていたのでした……。
今から思えば、この時点で原作とは違ったルートを走り出したのは分かります!でも、まだこの時点では「あゆの復活にスパイスを効かせただけだろう」と思い込んでいましたよ。
【果てしなく開いていく笑顔の扉の向こう 「ありがとう」抱えきれず 溢れ始め】
物語はBパートへ。まずは佐祐理さんと舞の卒業式のシーンです。――この話で、もっとも不要で、そして私が一度は駄作の烙印を振り上げる原因になった箇所です。
だって、街の人さえ歩かせて、本物より美しく雪を降らせる京アニが、他の卒業式参加者を書き割りのように止め絵にしてたんですもの。口さえも動かない背景の人たちに、気持ちが一気に冷めましたよ。ダメだ、と心底思いましたね。
まさかそれが「夜明け前が一番暗く見える」という格言どおり、奇跡の展開の序曲だとは思いもよらなかったのですが…。
佐祐理さんの誘いを断って病院に向かった祐一。そして、あゆに向かって、今日の出来事を語り始めます――。
そして、あゆが「応え」ます。
と。
原作になかった、完全オリジナルの、モノローグ。
それをバックに展開される光景に、私、釘付けになりました。
足をマッサージする名雪。身体を返す舞と佐祐理さん。髪を洗う秋子さん。夏の屋外に連れ出し、髪の手入れをする香里と栞……。
「いいことをすると、ぐるっと回っていいことが還ってくる」
子供のとき、誰でも一度は聞いたことのある言葉だと思います。
祐一とあゆがしてきたこと、まあ祐一がしてきたことは必ずしもいいことばかりじゃなかったけれどその償いを含め、こうして形になって還ってきた。そんな幸せの連環を見せながらも「簡単にはあゆは復活させない」という京アニの意思に、心中で嬉し涙を流しました。
そうです、原作以外のメディアが、原作を超えて語ることが出来るのは、こうした、あるはずだったけれども目には見えなかった部分に他ならないのです。
【始まりも終わりもない 永遠の旅をしてる】
季節が秋に変わると、栞が、自分のエンディングの時の台詞を伝え始めます。自分たちは、誰かの夢の中にいる、と。
原作でも、一番あゆに近い位置で駆け抜けた栞が語る最後の願いの謎解きは、胸にす、す、と入ってきました。
いつ終わるとも知れない病院通い。
『奇跡って、起こせる?』
いつかの名雪の台詞が、ふと祐一の耳に蘇ります。
しかし、その言葉を打ち消したのも、他ならぬ名雪なのでした。
ふぁいとっ、だよ。
その前の「別に祐一のためじゃないもん、あゆちゃんのためだもん」とあわせ、これこそ、名雪の本当の強さだと思います。祐一を気遣い真実や本音を隠すこともなく、また怒りや嘆きと共に感情をぶつけるのでもなく、ごく自然に自分の気持ちを言うことができるようになった。
この最後の土壇場でもなお日々を積み重ねようとする姿勢に、心を打たれます。
そして……季節は冬。仲間たちも、次々と進路が決まり、この時間を巣立って行こうとしています。
けれども、あゆの時はまだ止まったままでした。祐一も、耐え切れなくなり、弱音を漏らします。
【冷たい指先 探し続けてた 欠片輝いてる 強く胸に抱きしめて】
そこにやってきたのは、舞。舞は、おもむろに、こう語りだします。
迎えに行ってあげて。私のときのように。
「あゆは、どこで俺を待っているんだ」の言葉どおり、駅前のベンチなのか『学校』なのか、私も断言は出来ませんでした。
でも『学校』に辿り着き、そのあとに起こった出来事に、脳が真っ白になりました。
今まで3度も来ていたのに、見つからなかった探し物を見つける祐一。
それは、紙袋が擦り切れた、子供のお小遣いでも買える、赤いカチューシャ。
祐一はすべてを悟り、泣き崩れます。
祐一の涙。沢渡お姉さんの前で流したときは冷ややかにしか見られなかった涙が、防壁を失った『私』のなかに流れ込み、すべてを埋め尽くしました。
絶対超えることはないだろうと思っていましたが、この瞬間、私の中で、アニメが原作を超えました。
【探していた失しもの 両手の中確かめて】
冒頭にも書きましたが、「必要だったのは『奇跡』じゃなく『約束』だった」そして「本当に探し物をしていたのは、祐一だった」というストーリー。
――言葉がありませんでした。
『Kanonは『奇跡』の物語』と世間では言われていますし、書き手であった私もそう思ってずっと話を作ってきました。
そうじゃなかった。
ここにあったのは、Kanonに本当に名づけられていた名、『思い出に還る物語』だったんです。
祐一とあゆは再び出会います。
舞のもたらしたあの力のような光景、8年前のあのベンチで。
遅刻しているというのに慌てることなく、迷いのない足取りで迎えに来た祐一。
今度こそ祐一は、悲しみに胸を押さえることなく、別れの苦しみに疼くことなく、あゆに語りかけることができました。
探し物。
この京アニ版Kanonでのそれは「約束」だったのですね。
あゆに「行こう」と手を差し伸べる祐一。その手を取るあゆ。
ONEとAIRと、そしてKanon。Keyのすべてが集ったような、そんな瞬間。
心の底から思いました。
この作品に、出会えてよかった。このアニメを、見ていて良かったと。
【新しい朝に出会う 時が 動き出すよ】
そしてエピローグへ。
「生まれたての風」と共に、原作どおり、あゆが桜の下で祐一を待っていました。
しかし、カメラが切り替わり、ベンチのそばに不自然におかれた車椅子に、私声を上げて「あっ」となりました。
ラストシーン、原作では文字通り「奇跡」による復活ですから、二人で手をつないで歩いていきます。でも製作陣、決してそうはしなかった。
少しふらつきながら手を引かれ、車椅子に乗るあゆ。それを押していく祐一。そこには、2人の過ごした7年間、いえ8年間という時間が、確かにありました。
好きな人を失いかけた悲しみの記憶、病院のベッドの上で過ごした時間、それは一度の奇跡なんかでチャラにはできない。
でも、話す2人には、少しも影のない、明るい未来が見えていました。
車椅子を押されながら、また走り回れることを夢見るあゆが、ずっと走り続けていたEDのあゆとオーバーラップして……本当に、彼らは、この瞬間のために、とんでもない遠謀をめぐらせていたものだと、心の奥底から満足して、視聴を終えることが出来ました。
24話を通してみた各キャラごとのシナリオ評価が残っていますが、ひとまず、この台詞を最後に筆を置きます。
――ありがとう、ございました。
>「簡単にはあゆは復活させない」という京アニの意思
私も、これには最初戸惑い、そして驚愕しました。
「原作完全再現」で知られる京アニの事、あの原作最終場面を
キレイに描いてくれるとばかり思っていましたから。
正直、甘かった………………
京アニさんはまさに「TVアニメだからこそ出来た、しなければならなかった」
事をやってくれたと、感嘆しております。
私も、公開前に総監督が「原作に忠実に」とおっしゃってたので油断していたんですが、まさか、こんな形で『忠実に』やってくださるとは予想外でした。
ゲームで映らなかったシーン、ゲームがいえなかったシーンまで加えて再現して見せるのですから。
ありがとう、としかいえないですね、本当に。
栞が言うとおり、祐一が笑顔でいられるようにとあゆが願ったとしたら、まことだけが復活していないのは少しおかしいけど、実際まことを人間のままよみがえらせてしまうとそれはそれでおかしな事になる。で、狐として復活させたのかなぁ?などと思いながら見てました。
実際の所どうなんだろう?私としてはあれはまことだと思ってますが。
最終回、ラストシーンの切り株と、それ以外にあと一回、確かに子狐が出てきます。
あのシーンは「言いおおせて何かある」って気もしますけど、やはり真琴……なんでしょうね。
もう木曜日が来ても起きてなくていいとおもうと寂しいですわ。